《风与云与虹》是一部由大原诚执导,加藤剛 / 緒形拳 / 吉永小百合主演的一部剧情 / 传记 / 动作 / 历史 / 战争 / 古装类型的电影,文章吧小编精心整理的一些观众的影评,希望对大家能有帮助。
《风与云与虹》影评(一):一生
承平5年(935年)2月に将門は源護の子・扶らに常陸国真壁郡野本(筑西市)にて襲撃されるが、これらを撃退し扶らは討ち死にした。そのまま将門は大串・取手(下妻)から護の本拠である真壁郡へ進軍して護の本拠を焼き討ちし、その際伯父の国香を焼死させた。同年10月、源護と姻戚関係にある一族の平良正は軍勢を集め鬼怒川沿いの新治郷川曲(八千代町)に陣を構えて将門と対峙するが、この軍も将門に撃破され、良正は良兼に救いを求め、静観していた良兼も国香亡き後の一族の長として放置できず国香の子の平貞盛を誘って軍勢を集め、承平6年(936年)6月26日上総国を発ち将門を攻めるが、将門の奇襲を受けて敗走、下野国(栃木県)の国衙に保護を求めた。将門は下野国国府を包囲するが、一部の包囲を解いてあえて良兼を逃亡させ、その後国衙と交渉して自らの正当性を認めさせて帰国した。
同年、源護によって出された告状によって朝廷から将門と平真樹に対する召喚命令が出て、将門らは平安京に赴いて検非違使庁で訊問を受けるが、承平7年(937年)4月7日の朱雀天皇元服の大赦によって全ての罪を赦される。帰国後も、将門は良兼を初め一族の大半と対立し、8月6日には良兼は将門の父良将や高望王など父祖の肖像を掲げて将門の常羽御厩を攻めた。この戦いで将門は敗走、良兼は将門の妻子(良兼の娘と孫とされる)を連れ帰る。だが弟たち(『将門記』には「舎弟と語らいて」とあり公雅や公連とされている)の手助けで9月10日に再び出奔し将門の元に戻ってしまった。妻子が戻ったことに力を得た将門は朝廷に対して自らの正当性を訴えるという行動に出る。そこで朝廷は同年11月5日に1つの太政官符を出した。従来、この官符は平良兼、平貞盛、源護らに対して出された将門追討の官符であると解釈されてきたが、前後の事実関係とのつながりとの食い違いが生じることから、これを公的には馬寮に属する常羽御厩を良兼・貞盛らが攻撃してしまったことによって良兼らが朝廷の怒りを買い、彼らへの追討の官符を将門が受けたと解釈する説が有力となっている。いずれにしてもこれを機に将門は良兼らの兵を筑波山に駆逐し、それから3年の間に良兼は病死し、将門の威勢と名声は関東一円に鳴り響いた。
天慶2年(939年)2月、武蔵国へ新たに赴任した権守、興世王(出自不明)と介源経基(清和源氏の祖)が、足立郡の郡司武蔵武芝との紛争に陥った。将門が両者の調停仲介に乗り出し、興世王と武蔵武芝を会見させて和解させたが、武芝の兵がにわかに経基の陣営を包囲(経緯は不明)し、驚いた経基は京へ逃げ出してしまう。京に到着した経基は将門、興世王、武芝の謀反を朝廷に訴えた[8]。将門の主人の太政大臣藤原忠平が事の実否を調べることにし、御教書を下して使者を東国へ送った。驚いた将門は上書を認め、同年5月2日付けで、常陸・下総・下野・武蔵・上野5カ国の国府の「謀反は事実無根」との証明書をそえて送った。これにより朝廷は将門への疑いを解き、逆に経基は誣告の罪で罰せられた。将門の関東での声望を知り、朝廷は将門を叙位任官して役立たせようと議している。
この時期には将門と敵対者の戦いはあくまでも私戦(豪族間の個人的ないざこざ)とみなされ、国家に対する反乱であるという認識は朝廷側にはなかったと考えられている。
平将門の乱[編集]
この頃、武蔵権守となった興世王は、新たに受領として赴任してきた武蔵国守百済貞連と不和になり、興世王は任地を離れて将門を頼るようになる。また、常陸国で不動倉を破ったために追捕令が出ていた藤原玄明が庇護を求めると、将門は玄明を匿い常陸国府からの引渡し要求を拒否した。そのうえ天慶2年11月21日(939年)、軍兵を集めて常陸府中(石岡)へ赴き追捕撤回を求める。常陸国府はこれを拒否するとともに宣戦布告をしたため、将門はやむなく戦うこととなり、将門は手勢1000人余ながらも国府軍3000人をたちまち打ち破り、常陸介藤原維幾はあっけなく降伏。国衙は将門軍の前に陥落し、将門は印綬を没収した。[9]結局この事件によって、不本意ながらも朝廷に対して反旗を翻すかたちになってしまう。将門は側近となっていた興世王の「案内ヲ検スルニ、一國ヲ討テリト雖モ公ノ責メ輕カラジ。同ジク坂東ヲ虜掠シテ、暫ク氣色ヲ聞カム。」との進言を受け、同年12月11日に下野に出兵、事前にこれを察知した守藤原弘雅・大中臣完行らは将門に拝礼して鍵と印綬を差し出したが、将門は彼らを国外に放逐した。続いて同月15日には上野に出兵、迎撃に出た介藤原尚範(同国は親王任国のため、介が最高責任者。藤原純友の叔父)を捕らえて助命する代わりに印綬を接収してこれまた国外に放逐、19日には指揮官を失った上野国府を落とし、関東一円を手中に収めて「新皇」を自称するようになり、独自に除目を行い岩井(茨城県坂東市)に政庁を置いた。即位については舎弟平将平や小姓伊和員経らに反対されたが、将門はこれを退けた。
新皇将門による諸国の除目と素性
下野守:平将頼(将門弟)
上野守:多治経明(陣頭・常羽御廐別当)
常陸介:藤原玄茂(常陸掾)
上総介:興世王(武蔵権守)
安房守:文屋好立(上兵)
相模守:平将文(将門弟)
伊豆守:平将武(将門弟)
下総守:平将為(将門弟)
なお、天長3年(826年)9月、上総・常陸・上野の三か国は親王が太守(正四位下相当の勅任の官)として治める親王任国となったが、この当時は既に太守は都にいて赴任せず、代理に介が長官として派遣されていた。当然ながら「坂東王国」であるなら朝廷の慣習を踏襲する必要は全く無く、常陸守や上総守を任命すべきであるが、何故か介を任命している。ここでの常陸、上総の介は慣習上の長官という意味か、新皇直轄という意味か、将門記の記載のとおり朝廷には二心がなかったという意味なのかは不明である[10]。その一方で上野については介ではなく守を任命しており、統一されていない[11]。
将門謀反の報はただちに京都にもたらされ、また同時期に西国で藤原純友の乱の報告もあり、朝廷は驚愕する。直ちに諸社諸寺に調伏の祈祷が命じられ、翌天慶3年(940年)1月9日には源経基が以前の密告が現実になったことが賞されて従五位下に叙され、1月19日には参議藤原忠文が征東大将軍に任じられ、忠文は屋敷にかえる事無く討伐軍長官として出立したという。
同年1月中旬、関東では、将門が兵5000を率いて常陸国へ出陣して、平貞盛と維幾の子為憲の行方を捜索している。10日間に及び捜索するも貞盛らの行方は知れなかったが、貞盛の妻と源扶の妻を捕らえた。将門は兵に陵辱された彼女らを哀れみ着物を与えて帰している。将門は下総の本拠へ帰り、兵を本国へ帰還させた。『将門記』では「然ルニ新皇ハ、井ノ底ノ浅キ励ミヲ案ジテ、堺ノ外ノ広キ謀ヲ存ゼズ。」と、この将門の一連の行動を“浅はか”であると評しており、事実その足場を固めねばならない大事な時期に貞盛らの捜索のために無駄に時間と兵力を使ったことは、後々の運命を見ると致命的となったと言える。
間もなく、貞盛が下野国押領使の藤原秀郷と力をあわせて兵4000を集めているとの報告が入る。将門は諸国から召集していた軍兵のほとんどを帰国させていたこともあり手許には1000人足らずしか残っていなかったが、時を移しては不利になると考えて2月1日を期して出撃した。将門の副将藤原玄茂の武将多治経明と坂上遂高らは貞盛・秀郷軍を発見すると将門に報告もせずに攻撃を開始するも、元来老練な軍略に長じた秀郷軍に玄茂軍は瞬く間に敗走。貞盛・秀郷軍はこれを追撃し、下総国川口にて将門軍と合戦となる。将門自ら陣頭に立って奮戦した為に貞盛・秀郷らもたじろぐが、時が経つにつれ数に勝る官軍に将門軍は押され、ついには退却を余儀なくされた。
この手痛い敗戦により追い詰められた将門は、地の利のある本拠地に敵を誘い込み起死回生の大勝負をしかける為に幸島郡の広江に隠れる。しかし貞盛・秀郷らはこの策には乗らず、勝ち戦の勢いを民衆に呼びかけ更に兵を集め、藤原為憲も加わり、2月13日将門の本拠石井に攻め寄せ焼き払う「焦土作戦」に出た。これによって民衆は住処を失い路頭に迷うが、追討軍による焼き討ちを恨むよりも、将門の「悪政」を嘆いたといい、既に民心は将門から離れていた。当の将門は身に甲冑をつけたまま貞盛らの探索をかわしながら諸処を転々とし、反撃に向けて兵を召集するが形勢が悪くて思うように集まらないために攻撃に転ずることもままならず、僅か手勢400を率いて幸島郡の北山を背に陣をしいて味方の援軍を待つ。しかし、味方の来援よりも先にその所在が敵の知ることとなり寡兵のまま最後の決戦の時を迎えることとなった。
2月14日未申の刻(午後3時)、連合軍と将門の合戦がはじまった。北風が吹き荒れ、将門軍は風を負って矢戦を優位に展開し、連合軍を攻め立てた。貞盛方の中陣が奇襲をかけるも撃退され、貞盛・秀郷・為憲の軍は撃破され軍兵2900人が逃げ出し、わずかに精鋭300余を残すこととなってしまう。しかし勝ち誇った将門が自陣に引き返す途中、急に風向きが変わり南風になると、風を負って勢いを得た連合軍はここぞとばかりに反撃に転じた。将門は自ら馬を駆って陣頭に立ち奮戦するが、風のように駿足を飛ばしていた馬の歩みが乱れ、将門も武勇の手だてを失い、いずくからか飛んできた矢が将門の額に命中し、あえなく討死した[12]。
その首は平安京へ運ばれ、晒し首となる。獄門が歴史上で確認される最も古い確実な例が、この将門である。
この将門の乱は、ほぼ同時期に瀬戸内海で藤原純友が起こした乱と共に、「承平天慶の乱」と呼ばれる。
補足[編集]
王城を下総国の亭南(猿島郡石井という説がある)と定め、檥橋を京の山崎、相馬郡の大井の津を大津になぞらえて、左右大臣・納言・参議など文武百官を任命し、内印・外印を鋳造し、坂東に京に模した国家を樹立しようとしたとされている。
《风与云与虹》影评(二):生涯
生涯[编辑]
出生与平氏一族的斗争[编辑]
传闻下总国佐仓曾是父亲平良将的领地,至今佐仓市依然保有“将门”这个地名,不过并没有任何这方面的史籍资料。将门由故乡到平安京成为藤原北家之长者藤原忠平的随从,因为父亲良将忽然去世,所以返回了其领国。在当时并没有确立长子相续制度的情况之下,良将遗留下来的领地被将门的伯父平国香以及叔父平良兼私自的分割了。
根据《将门记》的记载,传说平氏一族的内部斗争是为了争夺常陆国前国司源护的女儿,或是平良兼的女儿所引起的。935年2月将门被源护的儿子源扶袭击于常陆国的野本,将门击退了源扶的袭击之后由大串‧取手往源护的阵地真壁郡前进,讨伐护的一族,甚至也一起讨伐前来协助源护的伯父平国香。同一族的平良正也整军在鬼怒川沿岸的新治乡川与平将门的军队对峙,将门也将平良正的军队击破。反对将门军的以平良兼为盟主,加上平国香的嫡子平贞盛的兵力与平将门战斗,但是受到将门的袭击后到下野国的国衙去请求保护。将门把下野国的国府包围起来,后将一部份的包围解除,让平良兼逃亡,同时与国衙交涉使其承认自己才是具有正当性的。
同年,朝廷发出召唤命令要求将门解释说明有关平一族的私斗的原因,将门前往平安京的检非违使厅接受询问,937年4月才被赦免而回国。回国后将门也依然和以平良兼为首的大半族人对立,良兼甚至还进攻放有将门父亲良将和祖父高望王肖像的常羽御厩。由于已经丧失了许多军马,将门只好退却,甚至妻子也被捕抓了。虽然将门也对朝廷强调自己行动的正当性,不过朝廷还是对平良兼、平贞盛以及源护等发出对将门讨伐的命令。将门在筑波山驱逐了良兼等人的兵,三年后良兼病亡,从此将门的威势与名声在关东一带非常响亮。
平将门之乱[编辑]
这时常陆国的藤原玄明因为没有缴纳朝廷的租税所以被下令追捕而去向将门要求庇护,于是将门将玄明藏匿起来。将门在939年前往常陆府中(石冈)要求撤回追捕令,但是在这里却突然遭到攻击。将门逼于无奈只好反击,并将常陆介的藤原维几逮捕攻陷了国衙,结果对朝廷正式举旗反叛。同时接纳被认为是桓武天皇子孙的兴世王之建议,同年12月也攻陷了下野、上野的国府,占领了关东一带并自称为“新皇”,于岩井(茨城县坂东市)设置政厅。
朝廷意识到这个危机感,下了一个只要能够取到平将门首级者可成为贵族的旨意给全国人民。两个月后的940年2月,将门与仇敌平国香之子平贞盛和藤原秀郷的会战中,被流箭射中而亡。之后首级被运往平安京成了晒首。关于这个将门的首级,成了在各地首冢的传说,最为著名的就是后述东京兜町的首冢。
几乎与将门之乱同时期,也有在濑户内海由藤原纯友发起的争乱,这两个动乱并称为“承平天庆之乱”。
另外,成田市的成田山新胜寺是当时朝廷为了降伏将门而建立的寺院,据说因为了这个缘故,将门家臣的子孙,在现代已经距离当时1080年以上,也都不会到那个寺庙参拜。甚至自古在佐仓市居住的人们,也有许多人家都不会去参拜。
同时根据筑土神社与神田神社(神田明神)的传说,其信仰者如果也到新胜寺参拜的话,将不会得到其主神将门的庇祐,所以会同时去成田山新胜寺参拜的人也不多。
评价[编辑]
位于兜町的平将门首冢
平将门的名誉平反是在江户幕府时期的三代将军德川家光的时代,由于乌丸光广听闻了将门传说的始末之后,向朝廷申请了赦免,才得以去除了国贼这个污名。不过虽然如此,在历史上无法改变将门确实有过曾经倒戈朝廷的事实,所以从明治开始到第二次世界大战结束为止,是将他当作是反逆天皇,并且自称为“新皇”的反贼来对待。虽然国贼的污名在江户时期就被江户敕使的大纳言乌丸光广为其翻案,但是在那个时代,其根深蒂固的“逆贼”形象仍然难以消除。直到战后以反天皇制的开始为契机,社会才开始认为他能够毅然对抗朝廷暴政,是一个英雄。
另一方面在江户时代根据德川幕府认为,将门的威灵能够当做是保护江户市街,将他以神田明神的祭神被祭祀。一般认为神田明神是由相当于江户城的鬼门迁移到现址,受到幕府的尊崇。由德川氏把背叛朝廷的将门安置于将军居住的城中来看,是幕府不希望朝廷振兴之决意的表现。神田的念法为“かんだ”(Kanda)是指被斩首的将门之身体(からだ‧Karada),也有神田这个名称就是由“からだ”所变化而来的传说。
在东京都千代田区兜町有个将门的首冢,据说每当有计划要迁移时都容易发生事故。以东京之灵的守护为主题,荒俣宏的小说《帝都物语》中就采用了相关题材。
关连项目[编辑]
承平天庆之乱
桓武平氏
相马氏
将门记
平将门首冢
筑土神社
相马神社
相马野马追い
《风与云与虹》影评(三):没看完,但感觉好气啊
电视剧没看完。一个傻逼愣头青的成长故事,感觉好气愤啊。太郎上小次郎女人的时候,如果小次郎有点血性,他就应该一刀把太郎砍死,然后再把小姐先奸后杀。他也可以选择,在仕途上爬得更高的时候,用其他方法把太郎逼死。
但就这么一个愣头青来说,情商低下,他不被整谁被整,主角应该是太郎那么聪明的人。按电视剧的人物设定看小次郎在仕途上比不过太郎,太郎是要当高官的人,小次郎的情商就算在乡下当个乡巴佬,在家乡的势力也可以完全碾压他。一个对所有事完全懵逼的人,他不适合当领导,他适合当去搬砖。要发展全靠运气机遇好嘛。
对于自己女人被上这种羞辱,尊严上的羞辱,小次郎很生气,居然若无其事的走了,回他的乡下。这仇真不能就这么算了。
一个傻逼的成长故事真是看的太虐心,但老片子还是非常好看。
《风与云与虹》影评(四):评价
関東一円では武芸に優れているばかりでなく、世に受け入れられない者の代弁に努めたという点で、その壮絶で悲劇的な死とも相まって、長い間将門は逸話や伝説として人々に語り継がれてきた。これは、将門が重い負担を強いられ続けた東国の人々の代弁者として捉えられたためだと考えられる。
中世、将門塚(平将門を葬った墳墓)の周辺で天変地異が頻繁に起こり、これを将門の祟りと恐れた当時の民衆を静めるために時宗の遊行僧・真教によって神と祀られ、1309年(延慶2年)には神田明神に合祀されることとなった。
神田明神は戦国時代の太田道灌・北条氏綱等の武将が武運祈願のため崇敬するところとなり、さらに関ヶ原の戦いの際には徳川家康が戦勝祈祷を行った。このようなことから、江戸時代には江戸幕府により平将門を祭る神田明神は江戸総鎮守として重視された。
また、将門の朝敵としての認識は江戸幕府三代将軍徳川家光の時代に、勅使として江戸に下向した大納言烏丸光広が幕府より将門の事績について聞かされ、「将門は朝敵に非ず」との奏上により除かれた。
なお、神田明神は幕府によって江戸城の鬼門にあたる現在地に遷座されたと言われる。これは、徳川氏が朝廷に反逆した将門を将軍居城の鬼門に据えることにより、幕政に朝廷を関与させない決意の現われだという。神田明神の「かんだ」とは首を斬られて殺された将門の胴体、つまり「からだ」が変化したものという説もあるし、坂東市内の胴塚周辺の地名は「神田山(かどやま)」である。
明治維新後は将門は朝廷に戈を向けた朝敵であることが再び問題視され、逆賊として扱われた。そして1874年(明治7年)には教部省の指示により神田明神の祭神から外され、将門神社に遷座されてしまう。一方で明治時代後期になると阪谷芳郎や織田完之らによる将門復権運動が行われた。
第二次世界大戦終結後は朝廷の横暴な支配に敢然と立ち向かい、新皇に即位して新たな時代を切り開いた英雄として扱われることが多くなった。そして、1976年(昭和51年)には将門を主人公としたNHK大河ドラマ『風と雲と虹と』が放映されるに及んで、将門の祭神復帰への機運が高まり、ついに1984年(昭和59年)になって、平将門神は再度、神田明神に合祀されている。
このように将門の評価は、古代の朝敵から、中世の崇敬対象へ、さらに明治時代の逆賊視、ついで戦後の英雄化と激しく揺れ動いた。最近ではより学術的な面からの研究が期待されている。
伝説[編集]
将門伝説の研究者である郷土史家の村上春樹 (研究者)は将門伝説を以下のように分類している。[13]
冥界伝説(地獄に堕ちた将門の伝説)
調伏伝説
祭祀伝説(将門を祀った神社)
王城伝説(将門が建設した都の伝説)
首の伝説
鉄身伝説(将門はこめかみにだけ弱点があると言う伝説)
七人将門の伝説(将門の影武者の伝説)
東西呼応の伝説
将門一族の伝説
追討者の伝説
調伏伝説[編集]
千葉県成田市の成田山新勝寺は、東国の混乱をおそれた朱雀天皇の密勅により寛朝僧正が、京の高雄山(神護寺)護摩堂の空海作の不動明王像を奉じて東国へ下り、940年(天慶3年)海路にて上総国尾垂浜に上陸、平将門を調伏するため下総国公津ヶ原で不動護摩の儀式を行ったのを、開山起源に持つ。
このため、将門とその家来の子孫は、1070年以上たった今でも成田山新勝寺へは参詣しないという。 また、生い立ちにもある千葉県佐倉市将門に古くから住む人々も参詣しない家が多く残り、かつて政庁が置かれた茨城県坂東市の一部にも参拝を良しとしない風潮が残るとされる。 築土神社や神田神社(神田明神)の氏子も、成田山新勝寺へ詣でると産土神である平将門命の加護を受けることができなくなるとの言い伝えにより、参詣しない者が多い。例年NHK大河ドラマの出演者は成田山新勝寺の節分豆まきに参加するが、1976年大河ドラマの「風と雲と虹と」の出演者も成田山新勝寺の豆まきへの参加辞退をした。
同じく、現在の千葉県市川市大野地区にも、将門公伝説が多く有り縁の郷とされ、現在の市川市立第五中学校の敷地は城址と言い伝えられ、校舎の裏に将門にまつわるとされる祠も祀られている。 校庭の向かいの高台に建つ「天満天神社」も、将門が勧請したという伝承を持つ。 また旧くからの地元住民は、板橋の名字が多く将門様の家臣と云う説が有り、地元の人々は成田山新勝寺には行かない・参拝をすると将門様の祟りが起こる、裏切った桔梗姫[2]にちなんで桔梗を植えない、といった言い伝えを今でも聞くことができる。
首の伝説[編集]
「京都 神田明神」京都市下京区新釜座町(四条通西洞院東入ル)には、民家に埋もれる様にして小さな祠がある。「天慶年間平将門ノ首ヲ晒(さら)シタ所也(なり)」と由緒書きにはある。
「太平記」に、さらしものになった将門の首級(しるし、しゅきゅう)の話が書かれている。将門の首は何ヶ月たっても腐らず、生きているかのように目を見開き、夜な夜な「斬られた私の五体はどこにあるのか。ここに来い。首をつないでもう一戦しよう」と叫び続けたので、恐怖しない者はなかった。しかし、ある時、歌人の藤六左近がそれを見て
将門は こめかみよりぞ 斬られける 俵藤太が はかりごとにて[14]。
と歌を詠むと、将門はからからと笑い、たちまち朽ち果てたという。
また、将門のさらし首は関東を目指して空高く飛び去ったとも伝えられ、途中で力尽きて地上に落下したともいう。この将門の首に関連して、各地に首塚伝承が出来上がった。最も著名なのが東京千代田区大手町の平将門の首塚である。この首塚には移転などの企画があると事故が起こるとされ、現在でも畏怖の念を集めている。
御首神社に伝わる話では、将門の首は美濃の地で南宮大社に祭られていた隼人神が放った矢によって射落されてしまう、落ちた場所に将門を神として崇め祀り、その首が再び東国に戻らないようにその怒りを鎮め霊を慰めるために御首神社が建てられたという。
昭和の終り、東京の霊的守護をテーマに盛り込んだ荒俣宏の小説『帝都物語』で採り上げられるなどして広く知れ渡ると、「東京の守護神」として多くのオカルトファンの注目を集めるようになった。
将門一族の伝説[編集]
遅くとも建武4年(1337年)には成立したと見られている軍記物語『源平闘諍録』以降、将門は日本将軍(ひのもとしょうぐん)平親王と称したという伝説が成立している。この伝説によると将門は、妙見菩薩の御利生で八カ国を打ち随えたが、凶悪の心をかまえ神慮に憚らず帝威にも恐れなかったため、妙見菩薩は将門の伯父にして養子(実際には叔父)の平良文の元に渡ったとされる。この伝説は、良文の子孫を称する千葉一族、特に伝説上将門の本拠地とされた相馬御厨を領した相馬氏に伝えられた。
「新皇」と名乗った史実に反し「日本将軍平親王」としての伝説が中世近世を通じて流布した背景に、板東の分与・独立を意味する前者を排除し、軍事権門として朝廷と併存する道を選択した源頼朝を投影したものだとする関幸彦の指摘がある。
《风与云与虹》影评(五):人物表4
西国の人々[編集]
純友と海賊・民人たち[編集]
藤原純友
(伊予掾)
演:緒形拳
将門とは京で出会い、肝胆相照す。その後伊予掾に任じられ海賊対策を命じられるが、腐敗した貴族政治を打倒すべく日振島で挙兵し、淀川まで攻め上るが、将門の戦死を知り、苦渋の撤退を決断する。貴族のことを国家と言う大木に巣食うシロアリと呼んでいる。
藤原恒利
演:今福正雄(現・今福将雄)
淡路島・小豆島を統べる海賊の首領。伊予に下る純友と神崎で出会い、親交を結ぶ。しかし、純友が挙兵した後に、娘の千載を正室に迎えるよう純友に頼んだ際、武蔵に心を惹かれている彼に断られる。すると純友と自分に面会してくれた忠平を天秤にかけて、武蔵のことを検非違使に密告し殺させた。
千載
演:五十嵐淳子
神崎の遊女であるが恒利の娘である。藤原恒利の元へ純友を案内する。
重太丸
演:早川勝也
純友の子。
くらげ丸
演:清水紘治
西海道海賊の頭目の一人。反権力思考。中島で追捕使の佐伯清辰らを討ち取る。都に純友と共に攻め上る途中、将門の死を知り撤退を決断した純友に掴みかかった。
鯖
演:宇津海仙
恒利の使いとして、純友の元へ来るが太刀を受け取る時の態度が悪かったため殴られる。
鮫
演:丹古母鬼馬二
西海道海賊の頭目の一人。追捕使として伊予に佐伯清辰が来た際には、海賊と純友との連絡役を務める。
大浦秀成
演:中丸忠雄
西海道海賊の頭目の一人。中島で追捕使の佐伯清辰らを討ち取る。
小野氏彦
演:大橋一元
西海道海賊の頭目の一人。
鯒麻呂[18]
演:大塚吾郎
西海道海賊の頭目の一人。追捕使として伊予に佐伯清辰が来た際には、海賊と純友との連絡役を務める。
船頭
演:中島元、町田幸夫
郡の大領
演:稲川善一
喜多郡の大領
郡司
演:渡辺巌
喜多郡の郡司
陳之謙
演:戸上城太郎
中国の海賊の頭目。けら婆が日振島に連れてきて純友と引き合わせた。
高麗の頭目
演:加藤精三
けら婆が日振島に連れてきて純友と引き合わせた。
紀秋成
演:平田守
純友の側近。
役人たち[編集]
平維久
(伊予守)
演:森塚敏
伊予掾となった純友の上司にあたる。伊予国府で西国に下った純友と面会する。純友の初対面の印象は「人の良い老人」。どもるような口調が特徴で、口癖のように「それが法の示すところ」と言う。
藤原正経
(伊予介)
演:寺田農
伊予掾となった純友の上司にあたる。伊予国府で西国に下った純友と面会する。純友の初対面の印象は「油断がならぬ」。
紀淑人
(弾正少弼→伊予守)
演:細川俊之
伊予守に任じられると、海賊を懐柔して普通の民人になるよう懐柔策をとる。純友に対しても鮫を通じて面会し、辞表は受理されておらず、現在も伊予掾であることを伝え、海賊対策に協力するよう依頼する。純友が挙兵した際には、仲間に加わるよう誘われるが、乱を好まない自分は公と共に滅びたいと述べ、誘いを断った。
漢部倉麻呂
(伊予目)
演:北浦昭義
佐伯清辰と共に伊予の中島へ海賊追捕に向かうが、霧の中討ち取られる。
佐伯清辰
(兵庫允・西海道追捕使)
演:渥美国泰
西国の海賊討伐を命じられる。伊予の中島で海賊を一気に攻めようとするが、霧の中討死し、京から来た軍勢も全滅することになる。
伊予介
演:竹田将二
その他[編集]
多治助実
演:中山昭二
京から源経基の訴えを確認する使者として将門の元に赴く。
下総守
演:小沢重雄
多治助実と共に坂東へ同道した。
上野介
演:大矢兼臣
その他[編集]
小米
演:池波志乃
上野、総社の巫女。将門が上野国府を降伏させた宴の席で神懸かりし、八幡大菩薩として「自分の子として帝になれ」と叫ぶ。
子春丸の女
演:藤田弓子
良兼に籠絡され、子春丸に裏切りを勧める。
征東軍武将
演:平野元
かや
演:遠藤真理子
葦津江郷の娘。桔梗の友人。後に将平と恋に落ちる。
いね
演:近藤雅子(現・西川まさ子)
葦津江郷の娘。桔梗の友人。
よし
演:山内千鶴子
葦津江郷の娘。桔梗の友人。
たみ
演:大森佳代
長百姓→栗麻
演:神田正夫
葦津江郷の長百姓で桔梗の父である。将門が良兼、良正らに敗れた時葦津江郷まで探索に来た良正に将門の兵である息子を殺せば村人の命は助けると脅したため、息子たちを自ら手に掛けた。しかし、後に民人たちを率い蜂起する。
郎党
演:井上博一、岡本隆、白石守、加藤正之、猪野剛太郎、毛塚守彦、森井睦、結城一郎
少女
演:重村博子
娘
演:桂木梨江
神官
演:大久保正信
巫女
演:長谷川雅美
乳母[19]
演:入江杏子
平家の郎党
演:荒井一夫
老爺
演:永井柳太郎
筑波山近くの小屋にいる老爺。筑波山の帰りに源扶に追われた貞盛と小次郎を逃がした。
侍女
演:岸谷善子、佐久間久枝、とりい三枝、岩金栄
《风与云与虹》影评(六):德川光圀日本史卷一百卅七列傳六十四紀淑人、源經基、平貞盛、藤原秀鄉
紀淑人,中納言長谷雄次子。【紀氏系圖、古今和歌集目錄。】延喜、延長間,歷藏人、左近衛將監、右兵衛佐、左衛門權佐。承平中,為河內守。【古今和歌集目錄。】累進從四位下。【紀氏系圖。】六年,南海賊起,聚黨數千人,乘船千餘艘,橫行海中,鈔掠商舶。【扶桑略紀。】敕以淑人為伊豫守,【日本紀略、古今和歌集目錄。○扶桑略記為伊豫大介。】追捕海寇。賊徒聞其寬恕,望風歸欵。魁帥小野氏彥、紀秋茂津、時成等三十餘人,率眾二千五百餘人來降。淑人給衣糧、班田疇,歸就農耕,海表晏然。【扶桑略紀、日本紀略。】天慶初,藤原純友將反,淑人累教諭之。純友不聽,遂反見誅。【外記日記。】六年,遷為丹波守。天曆初,任河內守,尋卒。【古今和歌集目錄、作者部類。】
源經基,貞純親王長子也。親王清和帝第六皇子,以故世稱經基為六孫王。後賜姓源朝臣。有武略,便弓馬,善和歌。【尊卑分脈。】承平中,為武藏介。【日本紀略、將門記。】豫知平將門蓄異謀,【日本紀略、今昔物語。】密至京師奏之。朝廷疑不納。無幾,將門果反。【今昔物語。】於是嘉賞,授從五位下。【日本紀略。】從藤原忠文討將門,【扶桑略記、古事談。】途聞將門伏誅而還。【十訓抄。】尋任太宰權少貳,【扶桑略記、外記日記。○尊卑分脈為大貳,誤。】為追捕凶賊使。【外記日記。】從小野好古討藤原純友。【扶桑略記、外記日記。】及好古班師,特令經基搜餘黨。時純友股肱佐伯是行、桑原生行未伏誅,尚聚殘黨,侵掠西邊。官軍與是行戰,于日向破之。藤原貞包擒是行。既而生行寇海部郡,經基自率兵接戰數合,遂破之,生獲生行,又獲馬船及器械雜具。生行病創死于獄,乃斬首,併是行傳之京師。賊黨悉平。【外記日記。】前後歷式部丞、左衛門權佐、內藏頭、兵部少輔、筑前、信濃、美濃、但馬、伊豫、武藏等守、鎮守府將軍。【尊卑分脈。】天曆中,為上野介,【○上野,一作上總。】進正五位下。【作者部類、佐竹系圖。○尊卑分脈作正四位上。】應和元年,卒,年四十五。【尊卑分脈。○本書或作四十一。足利系圖、山縣系圖作天德二年卒,誤。】有八子,長滿仲,自有傳。次滿政。【○日本紀略、藤原道長記作滿正。】次滿季,治部丞、兵庫助、武藏守。次滿實,陸奧、下野掾。次滿快,左衛門尉、相糢介、下野守。次滿生,上總掾。次滿重,出羽介。次滿賴,下野守、上野掾。經基之後,繁衍於東國,最為豪族。【尊卑分脈。】
平貞盛,葛原親王玄孫也。父國香,鎮守府將軍、常陸大掾。貞盛因稱常平太。【平氏系圖。○按源平盛衰記,作上平太,誤。】承平中,國香為姪將門所殺。【平氏系圖、將門記。○神皇正統記云,為將門所攻,自殺。】貞盛時為左馬允,在京聞父死,欲報其仇,【今昔物語。】棄官東歸,為常陸大掾。【今昔物語、將門記。】貞盛以力不敵,隱忍未發。【今昔物語。】叔父下總介良兼,素與將門有隙,諭貞盛曰:「親族多為將門所殺,資財為其掠奪,而今反欲事之乎?盍與我戳力復讎。」貞盛遂從良兼。與將門戰不利,貞盛以為:「久居賊地,恐陷同惡之罪,不如稟朝命聲罪討之。」天慶元年,潛取山道赴京師。將門聞之,率輕騎,追及信濃。貞盛苦戰大敗,僅以身脫。器械資糧,盡為所奪,單騎入京師。既而朝廷給官符於貞盛,到常陸,推問將門罪。【將門記。】將門聞貞盛至,欲迎擊之。貞盛潛匿不出。將門駐軍數日,不知貞盛等所在,因散還其眾,率千許人出下野。【今昔物語、將門記。】貞盛聞之,與下野押領使藤原秀鄉,發兵四千餘人急擊之。將門敗走,保下總幸島。貞盛等乘勝逐北,縱火燒營。將門逆戰,貞盛等奮勇力戰,又破之,親射殺將門,賊黨悉平。【○參取扶桑略記、今昔物語、將門記。】以功敘從五位上,【扶桑略記、今昔物語。○日本紀略作從五位下,將門記正五位上,神皇正統記正五位下。】授右馬助,【扶桑略記、今昔物語、古事談。】任鎮守府將軍。【日本紀略、平氏系圖。】天祿、天延間,歷丹波、陸奧守,【類聚符宣抄。】敘從四位下。【印本尊卑分脈、平氏系圖。】初貞盛在京師,嘗詣氏部卿敦實親王,時將門亦候親王而去,從者五六人。貞盛遇諸門,入謂親王曰:「恨手下無兵。今不能殺將門,它日為天下患者必彼夫也!」後果如其言。【古事談。】
藤原秀鄉,左大臣魚名之後也。祖豐澤,為下野守。父村雄,下野權大掾。【帝王編年記、尊卑分脈。】秀鄉稱田原藤太,【帝王編年記。○源平盛衰記作俵藤太。】驍武有籌略。【源平盛衰記。】延喜末,犯罪配流。後為下野掾、【日本紀略。】押領使,【扶桑略記、今昔物語。】敘六位。【百鍊抄。】天慶中,平將門反,陷關東諸國,凶焰甚熾。【扶桑略記、古事談。】秀鄉陽應之,造其營通謁。將門聞其至喜甚。時方梳髮,不及結束,急戴帽出迎。秀鄉以為:「彼今舉大事,而舉措輕佻如此,誅之易易耳。」【東鑑治承四年。○源平盛衰記云,秀鄉將應將門,抵門通謁。秀鄉族大兵彊,勇名振東國。將門聞之驚喜,散髮迎接,喋喋款語。秀鄉以為輕率無人君之度,大失望。既而將門設酒饌饗之。方對食,食污其袴,類以手揮之。秀鄉益鄙之,遂絕將門。今從本書。】遂與平貞盛協規同力,攻將門破之,謀畫居多。【今昔物語、將門記、源平盛衰記。】將門中箭墬馬,秀鄉進斬其首。【扶桑略記、古事談。】以功特授從四位下,【日本紀略、扶桑略記、百鍊抄。○神皇正統記作正四位下,恐誤。】賜功田子孫世傳,任下野、武藏兩國守,【扶桑略記、古事談。】拜鎮守府將軍。【尊卑分脈、梅松論。】子千時,鎮守府將軍。千晴,【晴字據日本紀略。○本書晴作春。】相模介。【尊卑分脈。○日本紀略作權介。】安和中,與橘繁延、僧蓮茂坐謀廢立,子久賴下獄,千晴流于隱岐,數年召還。【日本紀略。○尊卑分脈為千時事,誤。】千常,鎮守府將軍,後三世皆襲其職,【尊卑分脈。】世稱五代將軍,以為榮。【梅松論、結城文書。】子孫繁衍,為關東雄豪。【尊卑分脈。】
《风与云与虹》影评(七):平 将門
平 将門(たいら の まさかど、-將門)は、平安時代中期の関東の豪族。
平氏の姓を授けられた高望王の三男平良将の子。桓武天皇5世。下総国、常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがては関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国衙を襲撃して印鑰を奪い、京都の朝廷 朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称し、東国の独立を標榜したことによって、遂には朝敵となる。しかし即位後わずか2か月たらずで藤原秀郷、平貞盛らにより討伐された(承平天慶の乱)。死後は御首神社、築土神社、神田明神、国王神社などに祀られる。武士の発生を示すとの評価もある。合戦においては所領から産出される豊富な馬を利用して騎馬隊を駆使し、反りを持った最初の日本刀を作らせたとも言われる。
生涯[編集]
生年について[編集]
平将門の生年は9世紀終わり頃から10世紀初めとされるが、正確な生年は不詳である。一説には討ち取られた年齢が38歳(満37歳)とされることから、903年とする[3]。884年頃とする説もある[4]。
生い立ちと平氏一族の争い[編集]
父の平良将は下総国佐倉(現千葉県佐倉市)が領地と伝えられ、同市には将門町という地名も残っているが、根拠となる史料はない。また、母[5]の出身地である相馬郡で育ったことから「相馬小次郎」と称したとされているが、これは相馬郡に勢力があったということではなく、実際の勢力範囲は同国の豊島・猿島両郡であったと考えられている。将門は地方より15~6歳のころ平安京へ出て、藤原北家の氏長者であった藤原忠平を私君とする(主従関係を結ぶ)。将門は鎮守府将軍である父を持ち、自らも桓武天皇の五世であったが、藤原氏の政権下では滝口の衛士でしかなく、人柄を忠平に認められていたものの官位は低かった。将門は12年程在京して、当時軍事警察を管掌する検非違使の佐(すけ)や尉(じょう)を望んだが入れられなかった(日本外史や神皇正統記は「それを恨みに思って東下して反逆を犯した」とするが、現実的でなく、謀反は「制度に対しての行動」としている山陽外史[6]の見方が、現在では一般的である)。この後将門は東下する。この東下の時、千葉神社の渋谷川の碑文によると、叔父の平国香(平貞盛の父)らが渋谷川で将門を襲撃し、叔父の平良文が将門を援護し両者は逆襲している。
以後「平将門の乱」へつながる騒擾がおこるのだが、それらの原因についていくつかの説があり、いまだ確定できていない。
長子相続制度の確立していない当時、良将の遺領は伯父の国香(國香)や良兼に独断で分割されていたため争いが始まった、という説。
常陸国(茨城県)前大掾の源護の娘、或いは良兼の娘を巡り争いが始まったとする説(『将門記』などによる)。
源護と平真樹の領地争いへの介入によって争いが始まったとする説[7]。
「源護・源護の縁者と将門の争い」ではないかとも言われている(将門が当初は伯父らと争っているため、「坂東平氏一族の争い」と見られがちだが、国香・良兼・良正は源護の娘を娶っており、将門の父の良将
《风与云与虹》影评(八):任务表2
国香・貞盛一門[編集]
平太郎貞盛[5]
(左衛門少志→左兵衛少尉兼検非違使尉→左馬大允)
演:山口崇
国香の嫡子。将門の幼馴染み。若い頃は恋を楽しむ。将門と同時期に京へ上洛する。坂東へ帰るつもりはなく、都での栄達を望んでいる。国香が討たれた時も京へ留まろうとするが、忠平の命もあり坂東へ帰ることになる。将門との戦いを極力回避するべく努力するが、兵を起こした良兼軍に弟の繁盛が加わり、阻止するために陣に向かうが、そこで良兼に脅されたりなだめすかされたりして、共に将門と戦うことを決意する。その後京に逃れようとするが信濃国分寺で将門と交戦し、侘田真樹が死亡するが、辛くも逃げることに成功する。その後忠平から将門の追捕使に任命され、坂東に下るも利あらず、逃亡の日を送る。最終的に田原藤太と組み、将門を討ち取ることに成功する。
平国香
(前常陸大掾)
演:佐野浅夫
良将の兄。将門の伯父であるが、領地を横領したりしている。将門、貞盛が源扶に襲われると、すべての責任を将門に押しつけ陸奥へ追いやる。良将の死後、後を継いだ将門の領地を押領する。小督との縁談の仲立ちを将門に頼まれるが、将門には官位が必要であると諭し、京の都に貞盛と共に上洛させる。将門の留守中、領地を横領する。源氏の3兄弟が将門を討つため出陣すると源家に味方するが、敗北し討ち取られる。
秀子[6]
演:丹阿弥谷津子
国香の妻で貞盛の母である。良将の死後、将門の土地を横領し、仮病を使い将門との対面をうやむやにしようとする国香に「いっそ土地をお返しなされ」と諭す。良兼、良正と将門との戦いの前に自らは戦いを回避しようとする貞盛の使いとして将門の元に赴く。しかし、結果として貞盛は良兼らと共に戦うことになる。将門との別れの際に「力になりたいというあの子の気持ちは本当だった」と言うが、将門は二つに矢を折り、「矢が元に戻らないように、自分と貞盛の仲も二度と元に戻らない」と語った。
平繁盛
演:佐々木剛
貞盛の後を追い京へ上洛し官途に就く。国香が討たれたことを侘田真樹に知らされると、貞盛に仇を討つことを主張する。
侘田真樹
演:藤巻潤
平国香の家臣。国香が将門を討とうとする時諫めるが、逆に敗北し国香は討死する。そして、仇を討とうとするが、将門に諭され都の貞盛に国香の最期を知らせる。後に京に逃れようとする貞盛に従っていたが、信濃で将門に追いつかれ交戦した際壮絶な討死を遂げる。
小督(こごう)
演:多岐川裕美
源護の3女。神社の祭礼で将門と関係を持つが、その場では名を告げず立ち去る。後に将門に国香を通じて縁談を申し込まれ、父の護に「貞盛と将門とどっちがいいのだ」と尋ねられるが、本人は当初、姉たちと違って将門にも好感情を抱いており、「若いんですもの(若いから決められない、という意味)」と答える。後に貞盛の妻になる。口数が少なく、あまり自分の気持ちを話さないが、後に源氏と敵対関係になった将門に対し、姉たちと同様、敵対意識を抱くようになったらしく、逃亡生活を送る貞盛と再会した際は、彼に発破をかけていた。
貞盛の下人
演:猪野剛太郎、大久保正信
貞盛の郎党
演:田村錦人、北島和男
小督の侍女
演:玉井ゆみ
良兼一門[編集]
平良兼
(前上総介)
演:長門勇
良将の兄で将門の伯父。将門の留守中、国香とともに領地を横領する。詮子を後妻にすると、言いなりになってしまう。源扶に良子を嫁がそうとするが、将門に掠奪される。そして詮子に焚きつけられ出陣しようとするが、良子から将門に嫁いで幸せである旨の書状が届くと、心労のために倒れてしまう。しかし度重なる詮子の焚きつけと農繁期で油断した際に戦うべきと主張する良正の説得により将門を討つことを決意する。しかし、下野などでかき集めた2千もの大軍を擁しながら将門に敗れる。その後、高望王の木像や良将の肖像画を陣頭に掲げるなどなりふり構わぬ手段で将門に勝利するものの、民人の力を得て盛り返した将門に再び敗北し、失意の中病死する。
詮子(せんこ)
演:星由里子
源護の長女。良兼の後妻として嫁ぐ。扶と良子を結婚させようとする。良子が将門に掠奪されると当初から将門に悪感情を抱いていたこともあり、良兼に将門を討つよう焚きつける。良兼が良子が幸せである旨の手紙を受け取り心が揺れていると離婚をほのめかす。将門に「源家に赴き謝って欲しい」という旨の書状を届け、弟たちに騙し討たせようとする。将門の死後、落雷により父護と共に死去した。
公雅
演:高野浩幸
平良兼の子。良兼の囚われ人となった良子を、詮子たちの手から守るため、将門の元へ逃した。
公連
演:森井信好
平良兼の子
公元
演:佐藤健一
平良兼の子
蓮沼五郎
演:小沢幹雄
良兼の郎党。
海老丸
演:伊藤高
良兼の郎党だが、子春丸の従兄弟と偽り岩井の館に潜入し、夜討ちを図る良兼の元に情報を伝える。
良子の侍女
演:植木まり子、島田芳子
良兼の郎党[7]
演:立川恵三、佐藤勝貫、東治幸、山中康司、井上三千男
詮子の侍女
演:鈴木孝子、小野敦子
良正一門[編集]
平良正
演:蟹江敬三
将門の叔父。将門の留守中、国香とともに領地を横領する。気が荒く、父の仇討ちに消極的な貞盛を罵倒するが、これは「よき娘婿として源護に見られたい」という気持ちも入っていた。「川曲の戦い」で将門と一騎打ちするが、その最中に刀が折れても立ち向かってくる将門の威勢に恐れをなして敗走した。その後良兼を頼り、坂東ではタブーとされていた農繁期に兵を起こし将門を討つことを主張する。しかし、下野で2千もの大軍を擁しながら将門に敗れる。
良正の妻→良正の嫡妻
演:平井道子
良正に捕らえられた良子を、将門に返すのが筋だが、将門の行方がわからない状態なので、父の良兼の元に返すよう良正に迫り、承諾させる。
定子
演:新藤恵美
源護の2女。良正の側室となる。
良正の郎党[8]
演:浅野義行
良正の郎党
演:竹内喬、中村武己、竹内靖、加藤寿
兵→良正の兵
演:長克巳、綿貫宏和、水橋和夫
良文一門[編集]
平良文
演:渡辺文雄
将門の叔父。武蔵に領地を持つ。遠方ではあるが、良将の兄弟の中で唯一将門のことを気にかけている。将門と融和を図ろうとする貞盛に賛同するが、父の死を嘆かない貞盛の冷徹な性格が争いの本になるのではないかと懸念を表明した。良兼、良正と将門との対立を心配し、将門の母を預かる。
源氏一門[編集]
源護
(常陸大掾)
演:西村晃
小督の元に通ってきた将門と出会う。そして、「しかるべき人」を通じて縁談を申し込むように諭す。将門は国香を通じて縁談を申し込んだが、小督は貞盛に嫁がせたいとの意向を漏らす。戦いの経験が無く、隆と繁が討たれた際は国香の進言に従い落ち延びる。京の検非違使で将門と裁判で対決するが、将門を罪に陥れるため公を欺いたとして叱責された。その後、将門が関東を制圧すると共に流浪の身となる。将門の死後、落雷により娘の詮子とともに死去した。
源扶
演:峰岸徹
護の嫡男。女好きの乱暴者で知られ神社の祭礼に来た将門と貞盛を襲う。葦津江郷の桔梗を襲おうとし、玄明と将門に阻まれたり、良子との縁談のため良兼の屋敷に来た時も侍女に色目を使うなど女に目がない。将門に許婚の良子を奪われると、将門を騙し討とうとするが弟二人を殺された上に自身も左目を失う。将門の岩井の館での夜襲の際、将門との一騎打ちに敗れ良子の見守る中絶命する。
源隆
演:神太郎
護の二男。良子が将門に奪われると兄と共に将門を騙し討とうとするが、敗北し将門に討たれる。
源繁
演:牧村襄
護の三男。良子が将門に奪われると兄と共に将門を騙し討とうとするが、敗北し将門に討たれる。
源家の郎党
演:戸塚孝、大宮幸悦、広田正光、刀原章光、田辺しげる、えごのりやす
扶の郎党
演:根本嘉也
扶の兵
演:徳弘夏生、あびる啓二、島田彰、加地健太郎
《风与云与虹》影评(九):最早的武士
平小次郎将門
演:水野哲→加藤剛
性は純朴で武芸に優れ、理不尽な事には毅然として立ち向かう。貞盛と青春時代を過ごし、源護の娘小督に恋をする。小督に求婚するが、護にそれなりの官位につくことを求められ、上洛する。しかし、都では右兵衛少志に任官するも、貞盛に出世で後れをとる。また盗賊を退治するもその盗賊が高貴な身分であったことから評価を落とし挽回するため海賊退治のための西海道追捕使に従軍する。そこでは都で親交を結んだ藤原純友の計らいで全滅した追捕使の中で唯一人生き残るが、都に帰ると都での恋の相手の貴子は貞盛と恋仲になっていた。失意の中坂東に戻ると、伯父たちが土地を横領していることに気づく。伯父良兼の娘良子を強奪したことから一族の中で孤立し、伯父たちと戦うことになる。火雷天神の旗の元、一族や源氏との戦いに打ち勝って勢力を拡大し、坂東の民人の支持を得るが、政治的野心は持っていない。自分から新皇を名乗ろうとしなかったが、京から追討使が派遣される中、田原藤太、貞盛らの連合軍と戦い戦死する。
平氏一門[編集]
良将・将門一門[編集]
平良将(鎮守府将軍)
演:小林桂樹
将門の父。民人たちとも気さくに交流する。陸奥で病死する。
将門の母 正子
演:新珠三千代
愚直で一本気な将門を母として案じている。良子を掠奪した将門を諫めるが、良子には将門が以前から良子を好きだったことを知ると、これを許す。後に一族での争いが激化した時は義弟・良文の元に身を寄せる。
良子
演:真野響子
良兼の娘。義母の詮子の計らいにより源扶と婚約していたが、嫁入りの際に将門に掠奪された。当初は抗っていたが正子の話を聞き、将門が以前から自分を妻に欲しいと思っていたことを知り、嫁ぐ事を決める。
平三郎将頼
演:難波和宏→高岡健二(現・高岡建治)
将門の弟。上洛した将門に代わり家を守る。京から帰ってきた将門に妻を娶るよう薦める。将門と共に各地を転戦し運命を共にする。
平四郎将平
演:出原健一→岡村清太郎(現・清元延寿太夫 (七世))
将門の弟。学問に秀でている。学問を学ぶため、将門のいる京へ上る。小野道風に師事する。菅原景行らと共に坂東に戻る。将門の戦死後は、恋人かやの故郷、陸奥に脱出した。
豊太丸
演:磯永明彦
将門の子。
伊和員経
演:福田豊土
平良将・平将門の郎党。将門の上洛にも付き従う。坂東に戻ってからも将門の側近として活躍する。
将門の郎党[3]
演:中山廣道
郎党[4]
演:日野道夫
将門家の下男。将門が京から帰っても妻を娶らないことを気にかけている。良兼、良正が農繁期の六月に兵を起こして将門と合戦を構えようとした際には「坂東の合戦の作法も弁えぬ」と涙した。将門戦死後、燃える岩井の館で自害した。
老乳母
演:関京子
将門の郎党(老郎党)の妻で将門の乳母。将門が京から帰っても妻を娶らないことを気にかけている。将門戦死後、燃える岩井の館で自害した。
桔梗
演:森昌子
葦津江郷の娘。源扶に襲われたところを玄明と将門に助けられる。良子に対する恋慕を募らせる将門に、「欲しいものは奪い取ればいい」と勧める。将門の戦死の際には良子親子を逃がそうとして殺され、その地は桔梗の咲かない里になった。
子春丸
演:島米八
桔梗と同時期に将門の館に仕えるようになった若者。源扶と良子の婚姻の日取りの情報を将門に伝える。健脚なことから下人としては重宝されていたが、良兼の郎党の蓮沼五郎に捕らえられ脅されたため、良兼の郎党の海老丸を従兄弟と偽り岩井の館に招き入れた。
将門の家人(第1回)
演:井上博一、岡本隆
将門の郎党
演:西郷隆、永井譲滋、岡本隆、小松本幹三、大塚崇、浅野泰行
物見の者
演:加藤正之
大串の村に集結していた源扶の軍を偵察するよう将門に命じられた。
武者→将門の兵
演:加藤正之 、松島真一、山崎一雄、富永高敏
将頼の郎党
演:平川斉
将門の側近たち[編集]
鹿島玄明
演:草刈正雄
玄道の弟。将門と親しくなる。驚異的な脚力を持っており、将門と純友の間を往来する。武蔵が子高の罠にかかり捕えられた時は、伊予から京に引き揚げる途中の将門と同道していたが、恒利からその情報を聞き京へ駆けつけ武蔵を救出した。実は武蔵武芝の子で、武蔵とは姉弟だった。
鹿島玄道
演:宍戸錠
お尋ね者で、初対面では将門と喧嘩をするが、将門を気に入り、源扶に将門と貞盛が襲われた時には玄明と共に助ける。玄明とともに常陸の不動倉を襲撃した際に負傷。将門の元に逃れる。そのことが将門と常陸国府との対立の原因である。
興世王
(勘解由判官→武蔵権守)
演:米倉斉加年
皇族だが官僚としてはパッとしない。盗賊たちを捕らえ将門が京で評判になっている時、単に顔を見たいという理由でいきなり屋敷を訪れ将門と対面する。後に武蔵権守を命じられ坂東に下る。そこで武芝と対立し、将門の仲裁を受ける。武蔵守と対立し、将門の元で居候する。反乱を起こした将門の参謀役になり自身の権威を高めようとする。一味が全員討ち死にした際も一人だけ生きて捕らえられるが、やはり藤太の顔が見たかっただけで、「わしは武者ではないが恥は知っている」とその場で舌を噛み自殺する。
菅原景行
演:高橋昌也
菅原道真の3男。京から常陸の荘園に移る。その際、京に来ていた将平、三宅清忠も同道する。坂東に将門が戻ると、開墾などのことで将門に世話になる。将門の使者として良兼の元に将門と良子の縁談を頼みに行くが断れた。将門が国香を討った後、坂東に戻った貞盛と将門の間を取り持つ。後に良兼の軍に心ならずも貞盛が味方することになり、将門と戦い敗れると、貞盛から将門との間を再び取り持ってくれるよう依頼される。しかし、将門は景行の言葉に「貞盛は男ではない」と言い、景行も「二度とこのようなことは申しません」と言った。
三宅清忠
(小一条院藤原忠平家人→菅原景行家臣)
演:近藤洋介
将門の小一条院の同僚。将門に目をかけているが、実は純友とも関係がある。純友の影響で官位のことは気にしていないと言っていたが、将門の任官の際には「正直言って妬ましい。不思議なものだ」と複雑な心中を将門に語った。その後、景行とともに坂東に下り、将門の側近になる。
多治経明
演:金内吉男
羽生御厨の豪族。下野国境で将門が良兼等の軍を破ると、将門の元に押しかけて将門の弟分と名乗る。
文屋好立
演:大宮悌二
相馬の豪族。下野国境で将門が良兼等の軍を破ると、将門の元に押しかけて将門の弟分と名乗る。
興世王の郎党
演:朝野和信、伊藤仁
興世王の兵
演:暮林修、大峰順二、山下望
《风与云与虹》影评(十):人物表3
関東の豪族たち[編集]
田原藤太(藤原秀郷)
演:露口茂
少年時代の将門が父良将とともに陸奥に下向する際に縛られ馬で連行される藤太と出会う。後に下野国の有力豪族となる。成長した将門に好感を持つ一方で、彼の政治力に疑問があることを懸念し、また坂東の大地を将門と朝廷との争いで荒廃させたくないとの判断から、涙を呑んで将門を追討する。妻子には罪はないとして、追捕を求める経基の求めは拒絶した。
村雄の殿(藤原村雄)
演:信欣三
藤太の郎党→佐野八郎
演:松村彦次郎
藤太の側近。藤太には「爺」と呼ばれている。将門との戦いの前に下野国に進出した良兼が藤太と誼を通じるため派遣した使者に対し、主人は病気であると理由を構えて面会を断った。
藤太の郎党
演:林邦史朗[9][10]、浅野泰行
武蔵武芝
演:宮口精二
足立郡の郡司。興世王、経基と対立し、将門の仲裁を受ける。しかし、将門、興世王、武芝が自らを討つと誤解し警戒心を強めていた経基の兵により討たれてしまう。
武芝の郎党
演:真田五郎、遠藤剛
国司・役人たち[編集]
下野国府[編集]
大中臣全行
演:林昭夫
下野守。良兼が将門との戦いの前に豪族たちと誼を通じるため下野国小山郡に進出した時に、下野守として抗議した。そして、下野の戦いで良兼らを破った将門に都風で対面し、威厳を示そうとするが将門は直答をした。しかし、その公明正大で率直な将門の態度に感銘を受けた。後に常陸国府を占領した将門は下野国府に出向き、その際に国府の印鎰を差し出し降伏した。
下野国府の役人
演:井上和行
武蔵国府[編集]
源経基
(武蔵介)
演:菅野忠彦(現・菅野菜保之)
興世王とともに武蔵に介として下向する。武芝と対立し、将門の仲裁を興世王とともに受けるが、納得せず不機嫌になる。清和天皇の孫であるということで誇り高いが臆病な人物として描かれ、将門・興世王・武芝に襲われるという猜疑心をもち、京に逃走。「将門・興世王・武芝が謀叛」と報告する。
経基の従者
演:三由茂
経基の郎党
演:大竹まこと、加賀谷純一、田原アルノ、山之内哲平
常陸国府[編集]
藤原惟幾
演:横森久
常陸守。将門に常陸国府を占領され、尚も公の権威を信じていたが、高飛車な態度が将門の怒りを買い、あっけなく降伏する。
藤原為憲
演:中島久之
惟幾の子。戦の経験がないのにもかかわらず、重税にあえぐ民人をかりたて将門と戦おうとする。孫子の兵法に通じていると自任しているが貞盛から「兵法と実際の戦は違う」と呆れられる。将門との戦いでも兵法を活用しようとするが、実践では役に立たず生け捕りにされた。
為憲の郎党
演:岡本隆、三浦康一、津川一夫
常陸国府の目[11]
演:内山森彦
藤原為憲に叱咤され、将門の元に使いに出向く。
国府の史生[12]
演:瀬戸山秀樹
惟幾の郎党
演:青砥洋
京の人々[編集]
藤原忠平
(左大臣)
演:仲谷昇
京に上洛した将門が仕える。将門が坂東に帰ると、貞盛が仕える。国香が討たれた時貞盛が自分の意向に従い感情的にならず京に留まったことに満足していたが、貞盛が親の敵を討たない臆病者という評判が立つと、坂東へ返した。
藤原仲平
演:永井智雄
忠平の兄だが、出世は遅れをとる。その代わりに財を蓄えているとの評判がある。純友が仕えている。
藤原師尹
演:清家栄一
忠平の5男。将門が警護を命じられるが、それは師尹の初めての女に通うのを警護する役割であった。
貴子
演:吉永小百合
荒れ屋敷に住んでいるが、歴とした嵯峨天皇の曾孫にあたる。その出自に恥じない気品と、凛とした美貌の持ち主だが、明るく天真爛漫な性格。が、その反面、感情的になりやすく、嫉妬深い一面もある。足を怪我した将門が乳母に水を貰い、御礼のために来たところを対面する。その後病にかかるが、将門の手配により医者が派遣され事なきを得た。それから将門はしばしば貴子の元に通うことになる。そして将門の紹介で貞盛も屋敷を度々訪れるようになる。将門の誠実さに心惹かれる一方で、故郷の坂東に心を寄せ、盗賊の騒動で土地の献上による名誉挽回を拒否した将門にすれ違いを感じる。そして、同じく想いを寄せつつも、なかなか自分に対し振り向かない貴子に業を煮やした貞盛に無理矢理押し倒され、肉体関係を持ったことと、将門が海賊追捕のため西国に赴き、益々寂しさを感じたことから、心の穴を埋めるように貞盛の愛を受け入れ、深い仲になる。その後貞盛が京を去った後失火で屋敷を焼け出され、東の男により運が開けるという火雷天神の神託を信じて坂東に下るが、山賊に襲われる。その際に乳母を亡くす。そして山賊の手により人買いに売られ遊女に身を落とす。上洛した将門と再会し、遊女になったことを玄明に聞いた純友が銭を出し、解放され将門の京の屋敷に暮らす。その後、将門と共に坂東へ下り、将門の館に住むが、良兼らとの戦いに将門が敗れると怯え、逃げ出して貞盛を頼ろうとする。結局源扶に良子らとともに捕らわれられ、その際婆が貞盛ゆかりの女人であることを訴えるが、貴子は否定しただの囚われ人として扱われる。その後良子たちとともに良正の水守の館に連行されるが、兵たちにより慰み者にされ息絶える。
乳母
演:奈良岡朋子
貴子の乳母。荒れ屋敷を気にかけた将門が屋敷内で足を怪我すると、手当の水を用意する。そのことがきっかけで将門と貴子が接近するが、後に貞盛も貴子の屋敷に通うようになってから二人を天秤にかけて考えるようになる。その後失火により屋敷を失った貴子と坂東へ同道するが、山賊に襲われ落命する。
武蔵
演:太地喜和子
盗賊の頭領。純友とは深い仲である。純友が伊予に下る際、伊予に来るよう誘われるが、純友は盗賊の頭である自分が好きであるとの思いから同行しなかった。子高の屋敷を襲う時に罠にかかり、捕らえられる。しかし、玄明と傀儡たちにより救出される。その後坂東に下り、田原藤太の元に寄寓する。恒利の裏切りに遭い、検非違使に殺される。死の直前に玄明とは姉弟だった事が判る。
大中臣康継
(小一条院藤原忠平家司)
演:村上不二夫
小一条院に仕えることになった将門に忠平への目通りを申し出られた際、一度はすげなく断ったが、貞盛の勧めを受けた将門が馬を贈ると承諾する。しかし、その際の将門の態度が忠平へ直答するなど都の習いを弁えぬものであったため叱責する。後に第二の追捕使として伊予に赴く。先の追捕使の全滅の際、京から来た兵は全滅したが、伊予で徴兵した民人は一人の死者もいないと指摘。その指摘に純友は、海賊が民を襲わなかっただけで、そもそも海賊を生み出したのは中央の貴族であることが原因であると怒りを露にし、辞表を提出した。そして、純友を襲おうと兵を派遣したが純友は海賊たちの助けで海に逃れた。
紀豊之
演:綿引洪(現・綿引勝彦)
学生の殿といわれている。儀式を重んじる貴族たちに反感を持ち、内裏に動物の屍体を置き都を騒がせるという企てに将門と清忠を誘ったが、彼らは乗らなかった。都を騒がせるも、後に捕らえられる。
藤原子高
演:入川保則
山陽道巡検使として海賊の取締にあたり、山陽道の国司を督励する。伊予に下る純友と神崎で面会する。しかし、その手法は海賊を討つと称して民人を処刑し、海賊と民人を憎み合わせるというやり方で純友の怒りを買う。京に戻ると小一条院の家司となり、将門の従八位上・右兵衛府への任官を伝えた。そして、将門が盗賊を退治すると褒めそやすが、実は盗賊が高貴な身分であったことが判明すると掌を返した態度をとる。後に備前介として赴任。純友が挙兵した時には、美濃に襲われるが逆襲し、鼻を削ぐ。しかし、純友に復讐され、耳と鼻を削がれた。
小野道風
演:小池朝雄
京に上洛した将平が師と仰ぐ。酒が好きで、部屋は散らかり放題の変わり者だが、将門からの謝礼の話をきっぱりと断った。
季重
演:沢竜二
武蔵を頭領と仰ぐ盗賊。季光を殺されたことから将門を仇と見なす。武蔵を追って坂東に下る途中、鹿島玄道と知り合い同道する。将門と良兼、良正の戦いの際、良兼たちを追い詰めた将門が彼らを逃す姿を見て、度量の広さに感服し、後に将門を慕うようになる。その後、藤原恒利の裏切りにより武蔵と共に検非違使に殺される。
季光
演:無双信
武蔵を頭領と仰ぐ盗賊。季重の弟。将門に射殺される。
良高
演:伊藤正博
多治比の文子[13]
演:杉浦悦子
右近の馬場の火雷天神の巫女。貴子の運が東国の男によって開かれると神託を授ける。
大志坂上
演:柳生博
小一条院家人
演:里木佐甫良、稲垣昭三、上田忠好、山田康雄、大江徹、大宮幸悦、車邦秀、柚木隆太、川崎桂、伊藤弘一、森井睦、佐々木雄二、平野正明、船場克敏、小倉馨
待女
演:長沢昭子、池田勝美
露天の主人
演:平川斉
その妻
演:田中昭子
露天の主人の妻。
僧
演:平野元
将門が忠平の使いとして文を届けた僧侶。
弟子の僧
演:三橋洋一
将門が忠平の使いとして文を届けた際、直接僧に届けようとする将門を押しとどめようとした。
姫
演:新井悦子
師尹の相手を務めた姫君。
医師
演:北見治一
病の貴子を診断した医師。将門と貴子が深い仲と勘違いしていた。
神官
演:依田英助
職人
演:吉田宏、飯沼正
仲平の家司
演:関口篤
純友が官位を貰った際、脇に控えて純友の取次をした家司。
学生
演:山田兼二、福山ひろし
紀豊之と共に内裏に動物の屍体を置く事件を起こす。
内裏の男
演:徳山富夫
女官
演:小沢悦子
武蔵の手下
演:北村晃一 、岡本堅一
盗賊→恒明王
演:小林英樹
宇多天皇の血筋を引く皇族だが、盗賊をはたらく。将門に討ち取られる。
盗賊→藤原良資
演:西山直樹
中納言の次男という高貴な身分だが、盗賊をはたらき将門に討ち取られる。
盗賊→源祐
演:芳賀喜信
参議家である高貴な身分だが盗賊をはたらき将門に討ち取られる。
大尉中原
演:細川俊夫
右兵衛府の侍
演:中原成男、菅沼赫、名塚琢也、岸本功、竹内喬(現・竹内靖司)、小倉馨、針谷弘之(現・針谷雄平)、青砥洋、小金井宣夫
衛府の武者→武者
演:坂牧明、鶴岡修
衛府の武者
演:荻原紀
武者
演:車那秀、大宮幸悦
公家[14]
演:戸沢佑介、伊藤正博、飛騨昇、徳山富夫、岡本敏明、大矢甫、神山寛、真弓田一夫、庄司永建、西国成男、福原秀雄、陶隆司、小池栄
召使の婆[15]
演:春江ふかみ
貴子の屋敷に仕える婆。貴子の家が焼けた後、坂東への旅にも付き従い、貴子が遊女に売られた後も従い続ける。その後、純友の銭により自由になった貴子は将門により坂東へ下ることになるが、婆も同道する。
少判事
演:真木恭介
遊女宿の客
演:江原正士、渡辺厳
遊女
演:宇乃壬麻、五十嵐五十鈴
検非違使尉
演:児玉謙次
牛車の男
演:小川吉信
検非違使別当
演:奥野匡